アウディの歴史 – エンブレムに隠された4つの輪の由来とは?
アウトウニオンの誕生と消滅
アウトウニオンへの再編はアウディとDKWの間で始まりました。第一次世界大戦後の不景気の中、アウディは1923年に直列6気筒を積んだ新型車を華々しく発表するも、これが致命傷となり1925年には経営状態は劇的に悪化しました。
そこで1929年にアウディを救済したのが2輪車用エンジンで勢いがあったDKWでしたが、直ぐに独自の高性能車を販売する余力はなく、他社からライセンスされたエンジンを積んだ高級車販売などが行われました。
DKW、ホルヒ、ヴァンダラーの経営統合によるアウトウニオンの誕生
経済基盤を強化するべく、1932年、DKWのラスムッセンはアウディと因縁のあるホルヒと、DKWと同郷のヴァンダラーとの経営統合に踏み切りました。ここに4社連合のアウトウニオンが発足し、GM傘下で成長を続けていたオペルに次ぐ、ドイツ第2位の自動車メーカーとして再出発するのです。
アウトウニオン体制に移行しても製品はそれぞれのブランドからの販売が継続されましたが、自動車産業を支援したいドイツ政府からの資金提供を受け、1933年にはシュトゥットガルトで開業していた自動車製造コンサルタントのフェルディナント・ポルシェにレース用の高性能車開発を委託します。
このプロジェクトにより完成したPワーゲンと呼ばれるレーシングカーはレースシーンで活躍したほか、速度記録用のタイプCは史上初めて400km/hを超える速度記録を樹立しました。Pワーゲンのフロントグリルは、2000年代のアウディ各車種のシングルフレームのモチーフともなっています。
アウトウニオンの苦境
このように1930年代の短い期間、強い存在感を放ったアウトウニオンもまた、戦中戦後の混乱期の影響を大きく受けたメーカーでした。主要拠点ザクセン州は激しい戦火にさらされ、各工場は壊滅的になり、戦後ソビエト連邦に占領された後にMZモトラッドやトラバントの製造を行う工場に姿を変えました。
アウトウニオンの本社はバイエルンのインゴルシュタットに移転され、1948年からDKWが、少し遅れてアウトウニオンのブランドが復活します。
特にDKWの2輪車の製造は順調でしたが、ドイツ国内は北米資本の進出が著しく、ダイムラー・ベンツは1958年にアウトウニオンの4輪車部門を吸収合併するに至りました。ダイムラー傘下ではDKWとアウトウニオンのブランドで4輪車が販売されていました。
フォルクスワーゲンによるアウトウニオンの買収
1964年にはフォルクスワーゲンがアウトウニオン買収に乗り出します。1965年にはアウトウニオンはフォルクスワーゲンの子会社となり、需要が切迫するタイプ1(ビートル)の製造を委託する一方で、DKWが得意としていた2ストロークエンジンを廃止、新世代の4ストロークエンジンの採用を機に、ブランドもアウトウニオンとDKWを廃止して、休眠状態だったアウディ1本に切り替えることになります。
1969年には機械工業に端を発し、ロータリーエンジンの発明で知られるNSUをVWが買収、アウトウニオンの傘下に置き、技術共有を行いました。このアウディNSUアウトウニオンAGによる研究開発の成果のひとつがフォルクスワーゲン・ゴルフでした。

「アウディは4社が合併した会社だからエンブレムは4つの輪」だと人に教えたことはありますが、各々どんな会社だったかは知りませんでした。歴史を紐解くとなかなかどうして、4社どころかドイツの自動車産業が勢揃いする感じですね。とても勉強になって面白い記事です。
これだけ有名な会社なのにエンブレムの由来を知りませんでした。勉強になりました!