難民を手助けする方法?ドイツ人にとってはいい迷惑!
日本では昨年、毎日のようにニュース番組でヨーロッパの難民危機が取りざたされていました。それも最近は落ち着きつつあります。
ですがドイツでは、難民はいまだに悩みの種。いまだにドイツのニュースサイトは、難民に関する記事でにぎわっています。
難民を手助けする7つの方法……?
ドイツの大手紙、南ドイツ新聞は「あなたが今難民を手助けできる、7つのアドバイス」という記事を公開しました。
そのアドバイスはたしかに理にかなってはいるのですが、あまりに性善説に基づきすぎといいますが、キレイすぎます。
ここからはぜひ、「もし日本で難民を受け入れたとして、その人たちのために『これをやったらいいよ!』と言われたらどう思うか」と考えながら読んでもらえればと思います。
というわけで、さっそく記事で紹介されている「7つのアドバイス」とやらを見てみましょう(参考)。
1.難民と時間を共にしよう
まず最初に挙げられているのが、難民と時間を共有することです。「歓迎している雰囲気を出そうぜ!」ということですね。例として、「難民との遠足、カフェに行く、一緒に料理をする、サッカーをする」ことが挙げられています。
……これは明らかに面倒くさい。「ダルいな」と思ってしまったのはわたしだけじゃないでしょう。
人によっては、友好的な関係を築けることもあるでしょう。長く付き合える友人になれる可能性もあります。ですが文化的に大きな差がある難民と友人関係を築くには、互いの譲歩が不可欠です。
がんばって相手を理解してまで難民と友人関係を築きたい人がどれだけいるのでしょうか。相手側も「ドイツを理解したい、ドイツに溶け込みたい」という姿勢が必要になります。それを持っている難民というのも、どれくらいいるのでしょう。
2.ドイツ語の授業を提供しよう
当たり前ですが、難民申請をしている人の多くはドイツ語が話せません。多くの場合、英語も話せないでしょう。そういう教育水準だからこそ国を出たわけですから。
なので、ドイツ語の習得はドイツで生きていくために必要な能力であることは明らかです。
特に現在はドイツ語が話せない子どもたちが問題になっています。親がドイツ語を話せないので、子どもはドイツ語知識がないままドイツの義務教育を受けなくてはなりません。そんな状況を回避するためにも、難民にはドイツ語を学んでもらう必要があります。
ですがこれは国が制度として確立すべきものであって、個人がどうこうするものではありません。ドイツ語を教えた経験もないそこらへんの主婦が、予備知識のない難民にドイツ語をちゃんと教えられるとでも思っているのでしょうか。
こういうのはちゃんと制度として国が管理して、「半年以内にドイツ語レベル○○修了しなければ帰国」くらい強気でもいいと思います。
3.代父母になろう
直訳したらキリスト教の洗礼式の立会人に当たりますが、要は「見守って、導いてあげよう」ということですね。
常に複雑化していく難民問題において、ただシステマチックな対応では処理できないことも多いでしょう。だからこそ、個人的な付き合いをして、個人的な相談ができる人がいることは、難民にとって大きな手助けとなります。
わたしはドイツ人の彼と一緒に暮らしているので、たしかに手続きなどの際は心強いです。ですがそれはお互いの信頼関係が前提となります。「助けてほしいから友達になる」のではなく、あくまで「友達だから助ける」という流れが自然ではないでしょうか。
「手助け」なので仕方のないことですが、「ドイツ人が難民に施しをしてあげてる」感がどうしても否めません。
4.仕事探しを手伝おう
記事は個人的に手伝えることに焦点を当てていて、「仕事探しに必要な書類や役所の手続きを手伝うことができる」、とも述べられています。
たしかに、困っている人がいたら、書類を訂正してあげるくらいのことをしてあげる人も多いでしょう。ですが自力でそういった書類を用意できないレベルの人が、ほかのドイツ人と一緒に満足に働けるとは思いません。
ドイツ人が手続きを手伝い、運よく仕事が見つかったとしても、仕事中はどのみち自分で書類の手続きをしなくてはいけません。だったら手伝うのではなく、自分で出来る能力を養ってもらった方が将来その人のためになるのではないでしょうか。
5.居住先を一緒に探そう
「いまだに体育館や狭い居住地で暮らしている難民に、快適な暮らしを提供しよう」といった趣旨です。物件を探すだけでなく、「大家とのコミュニケーションを手伝おう」とも書かれています。
たしかに、言いたいことはわかります。ですがいまドイツは、未曽有の物件不足です。引っ越したいドイツ人が、部屋が見つからずに苦労しているのです。物件の絶対数はある程度決まっていますから、そこに難民が押し掛けたら家不足になるのは当然です。
空いている部屋をどんどん難民に提供したら、もともと住んでいた人たちの居住事情はどうなるのでしょう。難民を受け入れた側の責任もありますが、自国民の裕福さがあってこそ、難民を受け入れる余裕ができるのです。
ぶっちゃけ、わたしが大家ならばドイツ語が話せず職もない難民より、ドイツ人に貸したいと思いますね。そしてわたしのまわりでも引っ越し先が見つからずに困っているドイツ人が多いので、気軽に難民に居住地を提供し続けるのは無責任だと感じています。
難民に「体育館で暮らせ」と言うつもりはありませんが、「部屋をあてがおう」というのはちょっと短絡的ではないでしょうか。
そもそも住む場所も確保できないのに受け入れるってところからして、こういう問題が起こるのはわかりきっていたことですよね。なぜ対策してから受け入れなかったのかと疑問です。
6.保護者になろう
難民としてドイツにたどり着いた人たちのなかには、両親が自国にいる、もしくは両親がいない孤児も含まれています。保護者がいない未成年者のために、後見人の必要性が叫ばれています。
過酷な環境に身を置く子どもに同情する人は多いでしょう。わたしだって、可能なら子どもはしっかりした家に引き取られて、新たなる人生をスタートさせてほしいと思います。
ですが子どもを一時的、長期的に預かるというのは、かんたんなことではありません。言い方は悪いですが、肌の色や髪の色、文化的背景や言語環境がまったくちがう子どもを家族として受け入れるのは、お互いむずかしいはずです。
後見人を立てることが理想的ではありますが、所詮は理想論。多くの人が後見人になると名乗りを上げるとは思えません。それならば未成年の難民たちのために、公的な宿舎などの制度を整えた方がいいのではないでしょうか。
7.金銭的支援も可能
王道かつシンプルな手助けは、金銭的支援ですね。「寄付もありだぞ!」と書かれています。たしかに。
ですがこれもあまり現実的ではありません。というのも、難民のためにドイツの税金をつぎ込んでいる政治家に腹を立てているドイツ人が多いからです。
「あなたが収める税金で難民を養うよ! それでも足りないから寄付してね!」と言う考えを、生理的に受け付けられないのは仕方のないことです。
日本でも、難民を受け入れるべきか議論がなされましたよね。そこで「あなたの税金が難民に使われるうえ、さらなる金銭的援助が必要だよ!」と言われたらどうでしょう。それでも、「身銭切ってでも来てほしい!」と言えますか?
人権国家を謳っているドイツでは、彼らの文化や思想への干渉はタブー。ドイツを知ろうとしない人たち相手でも、じゃぶじゃぶと税金を使うしかないのです。
その上寄付となると、いやぁ~な気持ちになってしまうのはわたしだけでしょうか。
難民がドイツに受け入れられる日は来るのか
ドイツは積極的に難民を受け入れています。ですがそれに納得していない国民が多いのもまた事実。そりゃあそうですよね、宗教も言葉も文化もちがう人たちが一斉に自国に押し寄せるんですから。「ドイツ人」と「難民」の溝は広がるばかりです。
みんな手を取って仲良く、が理想ではありますが、ドイツがあくまで施す側である以上、同じ立場になってわかりあうことは容易ではありません。
ドイツ人に肩入れしたら受け入れた難民を切り捨てることになるし、難民に肩入れしたらドイツ人からバッシングされる。どっちに転んでも泥沼です。
今回取り上げた記事は、「言いたいことはわかるけど、自分だったら面倒だなぁ」といった内容ばかり。ドイツ人にとっても、「こういう手助けがあるよ!」という「親切な提案」はいい迷惑なのではないでしょうか。
イギリスのEU離脱で揺れるヨーロッパですが、ドイツはヨーロッパより自国内の統治にもっと目を配るべきなのではないでしょうか。ヨーロッパという大きな枠を見すぎていれば、足元をすくわれる結果になるかもしれません。
ドイツ側の意見は、もちろんだと思います。でも、どうしても難民はドイツへ流れてきてしまう。
状況的には、受け入れ国となってしまっているというから仕方のないことなのかもしれません。
ただ、それで良いのかと、私は疑問に思います。
受け入れるということ。それは相手の声に耳を傾けることではないでしょうか?
どうして難民になってしまったのか。何があってドイツに来たのか。祖国はどういう状況なのか。
もし、日本が受け入れ国ならば、と考えるより先に、
自分たちが難民だったとしたら、どのように対応されたら嬉しいかを考えることが大切なのではないでしょうか。
正しい答えは分かりませんし、ないのかもしれません。
ですが、相互理解なしの関係ほどドライで冷たいものはないので、何らかの形でお互いのことを知っていく必要があるのではないかと感じました。
好むと好まざるとに関わらず、難民たちが来たのであれば、やはり隣人として受け入れる努力は必要です。記事にある全てを行う事は難しいでしょうが、少なくともコミュニケーションを行う事は必要でしょう。難民はドイツに何も知らずに来て不安でいるわけですから、道を教える、手順を教える、ルールを教えるというようなこと、そして知らないということに対して寛容でいることはできるのではないでしょうか。
まず言葉がわかりません。コミュニケーションができないと何もできないということですね。難民がドイツ語を覚えると同時に難民を助けるために相手の言葉を分かる努力をする必要があるようですね。
さて7つの方法ですが、これは難民を助けるすべだけでなくだれもが人を助けるときに必要なことに代用できると思います。
自分がその立場を想像したときのことを考え、常に前向きに取り組むよう片隅に残す言葉として大切だと思いました。
日本も過去の戦争や歴史上の責任から対象国に少ないとは言えない額の
保証や代償を払って来ました。
難民を受け入れるという問題とは少しタイプが異なりますが過去の歴史上の責任から
ドイツも人権国家を目指し、難民を多く受け入れるという選択をしたのであれば
国に住むもの、生まれたものとして責任を持ってこうして論議するのが義務であり
責任なのではないかと思います。とは言え、日々の暮らしの中での問題点が多いのは事実ですが
さっぱりと解決するという類ではなく、良くするために一部の人たちが理解し議論する
のではなくみんなが少しでも理解し考えて国民みんなで考える!というの理想になっちゃい
ますかね・・。
自分には一個もできそうにありませんね。話は違うかもしれませんが、東日本大震災のときに石原軍団が「俺たちはやきそば作るぐらいしかできないから」と言ってたのを思い出しました。個人ができることは限られているから、ここは国もしくは国以上の組織がやるべきことでしょうね。
ドイツは確か高齢化が進んできているため難民をうけいれてこの問題を少しでも解決しようとしていたような気がする。でも言葉や文化の違いんどではかなり苦労するでしょう。しかもあまりにも難民を受け入れるとパンクしてしまうでしょう。うまく均衡を保ちながら政策を練っていかなくてはいけないでしょう。
ある程度の相互の歩み寄りは、もちろん必要だと思います。
でも、過剰な努力は。当面はよくても、いずれ破綻します。無理を長続きさせるのは、やはり無理だと思います。
出来うる範囲で、での援助が長続きさせるための方法だと思います。