ポルシェの歴史 – フェルナンドポルシェが生み出す最高傑作
天才フェルディナント・ポルシェとポルシェ社の誕生まで
1875年、ボヘミアに20世紀に名を残す天才技術者が生まれた。後に世界に名だたるスポーツカーメーカーとして成長を遂げる、ポルシェ事務所の創始者、フェルディナント・ポルシェである。
ポルシェ家は代々職人の家計で、フェルディナントの父アントンはブリキ細工の職人であった。厳しい父親だったアントンはフェルディナントに自分の跡を次ぐ様に修行させましたが、フェルディナントが興味を持っていたのは電気工学で、言いつけに背いては電気工学の研究に精を出していた。そして遂にアントンはフェルディナントの才能を認め、ブリキ細工の職人を継がせることを諦めざるを得なくなったのである。
こうしてフェルディナントは1894年にウィーンに上り、電気機器産業にメーカーに就職しますが、ほどなく馬車製造から電気自動車製造への転換期にあったローナー社に引き抜かれることとなった。その後はダイムラーなどの自動車会社を転々とするが、この背景には理想的な高性能小型車を作りたいフェルディナントと、技術者としては彼を重用しつつも大型高級車を作りたい経営陣との対立が生じていた。
最終的には1931年、フェルディナントはドイツのシュトゥットガルトで独立開業の道を選ぶこととなる。当初、フェルディナントは受注が来ていないと思われるのが嫌で、開発する自動車には一貫性のない出鱈目な番号をコードナンバーとして振っていた。
しかし実際には彼の名声は、世界に轟いており、ドイツのアウトウニオン(後のアウディ)を始めとして多くの自動車会社が彼に設計を依頼し、スターリンが国民車開発のためにソ連へ来てくれないかとフェルディナントに打診したこともあった。最終的にはフェルディナントはドイツ政府の求めに応じてリアエンジンの理想的小型車を、開業後の初期に設計した”タイプ12″を元に開発し、これがフォルクスワーゲンの源流となったのである。
しかしこの様に政治に近い場所にいたことが、フェルディナントの寿命を縮めることになってしまった。第二次世界大戦が勃発し、フェルディナントは求められるがままに、今度は戦車の設計開発を行うこととなる。
ポルシェ設計の戦車は理想主義に走り過ぎたために、一部を除いて実戦ではあまり活躍しなかったが、終戦後、フェルディナントはフランスで理不尽にも逮捕され、刑務所に収監されて1年7ヶ月の厳しい生活を余儀なくされることとなった。

「ポルシェ設計の戦車」って見てみたいです。でもそのせいで刑務所に収監されていたとは、なんとも残念です。ダイムラーにも在籍していたんですね、ドイツの自動車産業の奥深さを感じます。(全く関係ないんですが、きょう偶然ポルシェ911と公道で並走したので思わずコメントしました。)
ポルシェはスポーツカーブランドとしては破格の生産量を誇っています。やはり耐久レースなどで抜群の成績を誇っていたことが影響しているのでしょう。それでいてF1には挑戦していないのは、F1の開発は量産車の開発にはあまり役に立たないとおもっているのかもしれませんね。
実はポルシェがドイツのメーカーとは知りませんでした。てっきりイタリアのメーカーだと思っていました。エンブレムがとことなくイタリアっぽい感じがするので…。