フォルクスワーゲンの歴史 – 国民車から世界一の自動車メーカーへ
ドイツの国民車構想とポルシェ博士

フォルクスワーゲンの発足は1937年であるが、そのきっかけは1934年に遡る。
ときのドイツ政府はドイツ国民全員の自家用車所有を実現すべく、国民車構想を提示。これは大人4人と荷物を乗せて100km/h以上での高速巡航する性能の高さ、丈夫な車体や空冷エンジンによる信頼性の高さ、14.3km/L以上の低燃費や本体価格1,000マルク以下の経済性の高さ全て両立するという、当時としては極めて画期的かつハードルが高いコンセプトであった。この国民車の開発の依頼を受けたのが、自動車技術者のフェルディナント・ポルシェ博士だったのである。
ポルシェ博士は1875年オーストリア生まれ。1898年からは自動車会社を転々としていたが、組織の中では自身が理想とする理想的なリアエンジンの小型大衆車の開発が出来ず、1931年に独立開業して自動車設計事務所を開いたばかりであった。
ポルシェ博士にとって国民車構想の依頼は願ったりかなったりで、1936年には国民車の試作車が完成し、1937年にフォルクスワーゲン準備会社が発足、1938年にはフォルクスワーゲン製造会社と名を改め、KdFと命名された国民車の製造が始まった。しかし戦争が始まり、KdFの設計と生産設備は軍用車に転用されてしまったのである。
やがて戦争が終わり、KdFの工場は解体されそうになっていたが、先進的な思想にイギリス軍が気付き、ドイツ復興の為にKdFの工場を再稼働させることを計画した。フォルクスワーゲン・タイプ1と名前を改めたKdFは、国営企業となったフォルクスワーゲンの元で、今度こそ本当に量産が始まったのである。このタイプ1はケーファーやビートルといった愛称で親しまれ、ドイツ以外の色々な国でも製造され、2003年のメキシコでの生産中止までの間に2152万9464台を数えたのである。

フォルクスワーゲンはポルシェ博士が創業して、最初からドイツ国民車を目指したんですね。ディーゼル車の不正問題をどうやって克服していくのか(大企業病でしょうね)、これからが見ものといった感じですか。
このサイトのおかげで外国車の歴史や現状を勉強する事が出来ました。私自身は日本の車が大好きですがドイツのメーカーも応援したくなりました!